すこし前に米国で日系人部隊第442連隊戦闘団を
讃える切手が発行されました
今回はその第442連隊戦闘団の奮闘を
振り返る内容です
最初の部隊が第100歩兵大隊として発足
1942年6月に、在ハワイの日系二世の
陸軍将兵約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に
編成され、更にキャンプ・マッコイで部隊は
再編され、第100歩兵大隊/100th infantry battalion
と命名される
更に1943年1月に日系人による連隊規模の
部隊編制が発表され、強制収容所内などに
おいて志願兵の募集が始めら砲兵や工兵中隊
を含む第442連隊が発足する
日系故の葛藤
米軍への参加は移民であった一世の親と
参加を希望する二世との間にかなりな
軋轢を生んだ
また それだけでなく同隊は当初は同じ
日系でも米本土出とハワイ州出が隊内で
対立もしていた
しかし 日系人収容所の実態を知らされ
以後は団結して戦うことになる
そして ここから彼らの伝説的な戦さぶりが始まる
イタリア戦線
まず第442連隊はイタリア戦線に投入され
モンテ・カッシーノの戦いやローマ開城戦
などに参加し 大きな戦果を挙げる
(ローマ市内への進駐は許されなかったが)
フランス戦線
アルザスの山岳地帯のブリュイエールの
戦闘では急峻な地形によりAFVが使えない中で
歩兵中心の戦いで真価を発揮した
その武勲により ブリュイエールには
第442連隊通りと名付けられた通りがある程で
この激戦の僅か一日ちょっとの休息の後に
語り草となっている"失われた大隊"救出戦に
赴くことになる
テキサス大隊救出戦
1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称
テキサス大隊がドイツ軍に包囲され窮地に陥る
ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と
激しい戦闘を繰り広げることとなる。
多大な犠牲を払いながらもこのテキサス大隊の
211名を重囲の中から救い出すことに成功した
そして 伝説へ
最後に伝説となった第442連隊に関する
幾つかのエピソードを載せておきます
中には 幾分脚色されたものもあるかも
しれませんが ここでは検証しません
孤立したテキサス大隊と連絡した442部隊は
抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が
軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と
言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちは
アメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と
激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼した
このテキサス大隊救出戦はアメリカ陸軍の
十大戦闘の一つとして 記録されている
1944年11月に師団長が閲兵した際、あまりに
参列した兵士がすくなかったため(K中隊が18名、
I中隊は8名のみ 通常なら一個中隊200名程度)
「部隊全員を整列させろといったはずだ」と
怒ったところ ミラー連隊長代理が
This is all the men, sir/これで全員であります!
と返答したため その凄まじい損耗ぶりに
ダールキスト少将は絶句したという
そしてアメリカ合衆国史上もっとも多くの
勲章を受けた部隊となる
442部隊のモットー
Go for broke!/当たって砕けろ!