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☆激闘ノモンハン 
ロシアのウソを暴け! 第二回
大和タケル
 
ノモンハン 7月から8月への流れ

7月の渡河作戦以降 膠着状態となっていた
ノモンハンですが ここから日本とソ連の
両軍の対応がまったく異なっていきます
日本軍の抵抗に苦戦したジューコフ将軍は
巨大な兵力を集結させ 一気に勝敗を
決する作戦にでます
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続々を装備と兵員 補給物資が集結します

特にソ連軍は決め手となる装甲車両では
戦車498両と装甲車346両と800両以上も揃え
日本軍とは装甲車両で8倍以上 機関銃は20倍 
火砲類では実に60倍ともいわれる戦力差でした

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両軍の配置図 楕円形の印が装甲部隊を表すが
日本軍には装甲部隊がまるで無いことが判る


一方の日本軍にはさしたる戦力増強は見られません
こんな状況でぶつかったら日本軍は瞬殺で
木っ端微塵になってしまっても不思議ではありません
それでは戦況を見ていきましょう


第二次ノモンハン紛争 ソ連の8月攻勢

8/20の早朝からソ連の強烈な攻勢が始まります
まず日本軍陣地に対して 砲撃と空爆が集中して
行なわれます 

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その後 横に長く守る日本軍陣地に対して 
BT-5( 一部BT-7を含む)を中心に火力支援型
BT-7Aも伴ったソ連側の機甲師団が中央軍 南方軍 
北方軍の三方から一気に進撃を開始します

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まず陣の右側を守っていた満州国軍が
敗走し 日本軍師団捜索隊が孤立
左側の日本の第71連隊も強襲され苦境に立ち
ジューコフの日本軍を包囲殲滅する作戦通り
日本軍陣地は両翼から締め上げられる
格好となっていった



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これに対して日本軍はまずソ連の南方軍に
対して反撃を行なうが砲兵と歩兵らの部隊連携が
上手く整わず また北方軍を攻撃した第72連隊も
壊滅してしまいます

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26日には後方のバルシャガル高地の砲兵陣地も
攻撃をうけ 第64連隊等は各自に離脱を行ないます

31日朝までに戦闘は終結し 日本軍残余は後退した
地点で再集結を図り 新たな戦線を作ります

以上が簡単な第二次ノモンハン紛争の戦闘結果です

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これを見ると日本軍惨敗と伝えられていた通りと
いう印象を受けます 
ですが考慮すべき点がいくつもあるんです

なぜ日本軍惨敗ではないのか?

まず元々の戦力差があります
決定的なのはソ連軍が大量の戦車を
保有していたにもかかわらず 日本側の
AFVは僅かだったという点です

同様のケースを戦史から拾ってみましょう
これより少し後の WW2初頭 ドイツ機甲師団は
ポーランドの騎兵旅団ポモルスカを全滅させます

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このドラグーンは当時 ヨーロッパでも最強部隊の
ひとつといわれており この最強部隊の壊滅は
ポーランドの早期敗戦の原因のひとつです

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また朝鮮戦争の際の烏山(オサン)戦闘では
北朝鮮のT-34と戦車を持たない米軍部隊が
戦いましたが バズーカでT-34を4両破壊した
ものの米軍第21連隊第1大隊は全滅し、
結局 この後プサンまで追い込まれ苦戦する
原因となりました

では日本軍はどうだったでしょうか?
確かに損害は大きく歩兵3個連隊はほぼ壊滅しました
ですが その後の戦線は確保されています

しかも『ノモンハン戦場日記』という歩兵の
日記集からは意外なことが判ります

当時の日本軍兵士の日記

独立野砲兵第一連隊第一中隊
観測小隊 陸軍上等兵 田中誠一

9月16日 土 晴
 午前8時、突然、停戦の命令を軍より受く。
意外な事に驚き、振り上げた手のおろし場に
困るとは此の事である。
攻撃準備全く成り一同張り切って居たのに
どちらが先に停戦を申し入れたか不明だが、
協定するしないは今後の事。

野戦重砲兵第七連隊第一中隊段列
増田 金之助

9月1日
満軍の兵站より13粁後方の地点。
今後の総攻撃準備と休養との事。
今迄は二箇師団対十箇師団。
今後の総攻撃は五箇師団対十箇師団だそうだ。

9月16日
意外にも停戦協定になってしまった。全く残念だ。


つまり日本側はソ連の8月攻勢は織り込み済みで
大規模反撃のため部隊集結を終えていたが
突如 停戦協定が成ったという一致した証言です
兵士たちにも 戦友を失った復仇の気持ちが
強く現れています


更に補強証拠として1998年の
『ロシアの記憶』モスクワ軍事出版社刊によれば 

ノモンハンの戦いにおける双方の損害

損害状況 戦死    負傷     合計
日本軍 8,741名 8,664名 17,405名
ソ連側 9,703名 15,952名 25,655名

という損害の数字がでています
ソ連軍は装甲車両 約1000両近くで
ほぼ無装甲の日本側を攻撃して 半数近い
約400輌のAFVを失い 更に死傷者数も
47%以上の8000人も多くだしています!
(日本側は80両程度の内 約30輌を喪失)

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まとめ

■日本陸軍はほぼ歩兵と砲兵の部隊でロシアの
 約1000両からなる大部隊を迎撃した

■その結果 日本軍は甚大なる損害を受けたが 
 戦線や後方の補給線は堅持した
 その証拠に大規模な反撃準備が整っていた

■しかも損失自体は兵士 車両 航空機の
 全てに於いて ロシア側の方が大きかった

さて これらを総合すると日本陸軍は少なくとも
惨敗はしていないといってもウソ デタラメ
ではないでしょう

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鹵獲したTB戦車前での記念写真

むしろ恐ろしいほどの強靭な戦いぶりを
見せたといっても過言ではないとおもいます

しかし そうなるとまた大きな謎が残ります
なぜ当時の軍部はこの奮戦を誉めるどころか
惨敗 指揮官死ね! と叱責したんでしょうか?

これについては 次回でみていくことにします
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