大和タケル
前回は航空機部品の増産と調達に奔走する
内容を中心にご紹介しましたが そうした
戦時下でも異彩を放っていた何人もの技術者や
企業家が載せられているので 今回は同書の中に
登場した人々についてちょっと見て行きましょう
長山三男大佐
陸軍造兵廠第二製造所所長であった
長山大佐は常にパイプを放さない
軍人風を吹かさない人柄であったようで
東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所変電所跡
高射算定具(仏の機械式弾道計算機を
国産化し高射砲と組み合わせたもの)を
東大と軍学共同したという才人だったようです
この弾道計算機は米国のエニアックが
現在のコンピュータの原型とされますが
極く初期段階の戦時中の日本の研究への
言及は貴重でしょう
ドローンの原型も開発
「Poplar Science」1930年8月号
更に驚くのは 長山号の開発者と同一人ようです
これは無線操縦による無人車両で 現在のドローンの
原型ともいえるものです
k-2無線操縦車両
1930年に日本でドローンの試作が行われていたのは
脅威的ですし もし開発中止にならずに発展していたら
特攻も別の形になったかもしれません
精密工学研究所
軍用の光学機器は大手メーカーが生産で
手一杯なので カメラ好きの産婦人科の院長が
買い取った精密工学という無名のカメラ会社に
X線カメラを依頼せざるをえなくなりました
その試作機を完成させた会社が後のキャノン
そして院長の名前は御手洗毅でした
東洋工業
三輪トラック マツダ号 1938年
鹿児島-東京間キャラバン宣伝
ある合板の得意な材木屋の工場を見学にいくと
戦時下の当時は機関銃の流れ作業の立派な
組み立て工場となっていました
その工場こそ 戦後にロータリーで名を
馳せる広島のマツダとなるわけです
(松田製作所という記載になっているが
マツダは(株)東洋コルク工業→(株)東洋工業です)
中島知久平
中島飛行機の創業者 中島知久平は
明治17年に群馬県の尾島町で生まれました
軍人を志して父の金を許しを得ずに持って
上京後 苦学して士官学校資格を得ます
晴れて親の許可を得た知久平は 海軍機関学校に入り
卒業後は仏式やカーチス等の飛行機を学びます
中島五型練習機
そして大正6年に利根川沿いに飛行機研究所を
設立します
ここで中島式練習機を開発製造に着手し
苦労するも 4号機が成功し陸軍に20機の
発注を受けたのが本格的スタートとなりました
そして当初3人だった社員も 大正10年には
陸軍機110機 海軍機75機を生産するまでに急成長
更に昭和20年には25万人の大企業へと成長させます
スバルやプリンスも計画的
我々は戦争に負けたから 中島は解体され
富士重やプリンスになったと思いがちですが
この本によると知久平の頭の中では 早くから
戦後の構想があったようです
つまり勝っても負けても 戦が終われば
軍需はしぼむ だから民需の自動車が必要と
いう青写真をもっていたとのことです
後年は政治家としても活躍し 第八代
政友会総裁にも就任しています
ちょっと現代では見ることのできなくなった
大きな気宇を持った人物だったといえるでしょう
富嶽の謎
ところで 敗色が濃くなるWW2末期の日本において
希望ともいえたのが 巨大爆撃機富嶽です
中島知久平が渾身を傾けたという幻の機体ですが
一方でこの機体だけがあっても 直衛すらない
状況でなにができたのかという意見も多いです
そのへんを別にまとめましたので 続きをご覧ください
待て 次号!