Historical War
Historical War



第二回 中島飛行機に関わった人々 

大和タケル
前回は航空機部品の増産と調達に奔走する
内容を中心にご紹介しましたが そうした
戦時下でも異彩を放っていた何人もの技術者や
企業家が載せられているので 今回は同書の中に
登場した人々についてちょっと見て行きましょう

長山三男大佐
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,

陸軍造兵廠第二製造所所長であった
長山大佐は常にパイプを放さない
軍人風を吹かさない人柄であったようで

太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所変電所跡

高射算定具(仏の機械式弾道計算機を
国産化し高射砲と組み合わせたもの)を
東大と軍学共同したという才人だったようです

この弾道計算機は米国のエニアックが
現在のコンピュータの原型とされますが
極く初期段階の戦時中の日本の研究への
言及は貴重でしょう

ドローンの原型も開発
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
「Poplar Science」1930年8月号

更に驚くのは 長山号の開発者と同一人ようです
これは無線操縦による無人車両で 現在のドローンの
原型ともいえるものです

太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
k-2無線操縦車両

1930年に日本でドローンの試作が行われていたのは
脅威的ですし もし開発中止にならずに発展していたら
特攻も別の形になったかもしれません

精密工学研究所
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,

軍用の光学機器は大手メーカーが生産で
手一杯なので カメラ好きの産婦人科の院長が
買い取った精密工学という無名のカメラ会社に
X線カメラを依頼せざるをえなくなりました 
その試作機を完成させた会社が後のキャノン
そして院長の名前は御手洗毅でした

東洋工業
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
三輪トラック マツダ号 1938年
鹿児島-東京間キャラバン宣伝

ある合板の得意な材木屋の工場を見学にいくと 
戦時下の当時は機関銃の流れ作業の立派な
組み立て工場となっていました
その工場こそ 戦後にロータリーで名を
馳せる広島のマツダとなるわけです
(松田製作所という記載になっているが
マツダは(株)東洋コルク工業→(株)東洋工業です)






中島知久平
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
中島飛行機の創業者 中島知久平は
明治17年に群馬県の尾島町で生まれました
軍人を志して父の金を許しを得ずに持って
上京後 苦学して士官学校資格を得ます

晴れて親の許可を得た知久平は 海軍機関学校に入り
卒業後は仏式やカーチス等の飛行機を学びます

太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
中島五型練習機

そして大正6年に利根川沿いに飛行機研究所を
設立します 

ここで中島式練習機を開発製造に着手し
苦労するも 4号機が成功し陸軍に20機の
発注を受けたのが本格的スタートとなりました


太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,
そして当初3人だった社員も 大正10年には
陸軍機110機 海軍機75機を生産するまでに急成長
更に昭和20年には25万人の大企業へと成長させます

スバルやプリンスも計画的
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,

我々は戦争に負けたから 中島は解体され
富士重やプリンスになったと思いがちですが
この本によると知久平の頭の中では 早くから
戦後の構想があったようです

つまり勝っても負けても 戦が終われば
軍需はしぼむ だから民需の自動車が必要と
いう青写真をもっていたとのことです

後年は政治家としても活躍し 第八代
政友会総裁にも就任しています
ちょっと現代では見ることのできなくなった
大きな気宇を持った人物だったといえるでしょう

富嶽の謎
太平洋戦争,日本軍,WW2,中島飛行機物語,戦闘機,一式戦,隼,二式戦,四式戦,疾風,スバル,中島知久平,東洋工業,長山三男,マツダ,キャノン,御手洗,

ところで 敗色が濃くなるWW2末期の日本において
希望ともいえたのが 巨大爆撃機富嶽です

中島知久平が渾身を傾けたという幻の機体ですが
一方でこの機体だけがあっても 直衛すらない
状況でなにができたのかという意見も多いです

そのへんを別にまとめましたので 続きをご覧ください
待て 次号!
 
inserted by FC2 system