交通科学博物館が閉鎖されて以降
静岡理工科大学航空資料館に
移されました
その中で この本の肝とも言えるのが
第四章の増産への奮戦です
主に大戦後期の主力エンジンである
誉/ハ45の製造に関する話です
特に誉発動機は5mm間隔の冷却フィンの
製造にまつわる苦労話などが綴られています
一つでも多くのエンジンを
中心となるのは やはりパーツ量産の苦労話です
特にミッドウェー以降 筆者が造兵廠から中島の
工場に戻ってからは原材料から完成品に到る
全てで物資の欠乏が起きてきます
誉のクランクシャフトなど当初は一本一本を
完成次第 工場近くの連隊兵士に担がせて
運ばせるなどいかに切迫していたかがわかります
誉搭載の海軍紫電二一型
しかし その一方で本来 同一であった
誉/海軍とハ45/陸軍が結局 仕様が異なっていき
最終的には互換性を失ってしまいました
一つでも多くという要求と矛盾した結果
こんなところにも 敗戦の一因が見られます
陸軍用の多くを生産した武蔵製作所
昭和十八年十月時局の要請により両製作所を
合併して武蔵製作所と呼称するに至った。
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員
男女動員学徒を加へその総数は五万人に及び
日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった
碑文より
最盛期には日本の1/4のエンジンがこの工場で
生み出されていました
それ故に 第一の攻撃目標とされ 十数回の爆撃により
爆弾五百発余が炸裂し この工場は灰燼に帰した
かに見えましたが 戦後 焼け残った鉄骨を利用して
外壁を作り直し かなりの部分がまた復活したようです
日本人も このへんは逞しいですw
また中島は戦後スバルとプリンスに分裂
しましたが そのプリンスは日産と結び
そして近年 長くライバル関係にあった三菱自と
外資の元にグループ化したのは 因縁めいています
長くなりましたので 人物編は第二回にします